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イラク レポート 2004/7 #3


[初めて飛行機を使ってバグダッドに来た] [サファアに会いました] [ファルージャ]
[ツアイサ核汚染の一年]

ファルージャ

 今回のイラク取材は、沖縄で訓練を受けた米海兵隊がファルージャで何をしたのか、 その一端をこの目で見ることが最大の目的であった。チャンスは滞在最後の日にようやくやってきた。
 私は「イラクイスラム党ファルージャ支部」の協力を得て市内に入ることができた。 同党は武装勢力と米軍の停戦のために大きな役割を果たし、武装勢力に一定の影響力を持っていた。 しかし、100パーセント安全は保障できないとM氏が言った。
ファルージャの中心部を流れるユーフラテス川に架かる鉄橋。 この橋に米軍の傭兵が殺害され吊された事件を口実にして、米軍はファルージャ包囲攻撃を始めた。(2004年7月18日)
この家を撮影をしている時に、ムジャヒディンがやってきて拘束された。(2004年7月18日)
日常化する停電が起こり、隣近所でお金を出し合ってジェネレーターを買い、 ジェネレーターから電線を引いているため電線の束が町のあちこちにできている。
米軍包囲中は遺体を市外に運んで運んで埋葬できなかったため、 サッカー場が墓場になってしまった。幼い姉妹3人が一つの墓に埋葬されていた。(2004年7月18日)
7月18日朝の空爆で14人の犠牲者が出た。 まあたらしい墓にはまだ名前も書かれていなかった。(2004年7月18日)
アブダル・ファキーム(5)君は自宅で家族と一緒に寝ているところに米軍の ミサイルが撃ち込まれ左目を失明した。左目には義眼がはめ込まれている。(2004年7月18日)
アブダル君とお父さんのスマイル(47)さん(2004年7月18日)
アブダル君とお母さんのファディーラ(38)さん。ミサイル攻撃されたときお 母さんは妊娠中でお腹に何かの破片が当たりお腹の子どもが飛び出して亡くなってしまった。 その時に腕も負傷した。(2004年7月18日)
4月8日深夜、家族全員が寝ていた部屋にミサイルで破壊された破片が飛び込んできた。 天井にたくさんの破片の当たった穴ができていた。(2004年7月18日)
停戦後も米軍の空爆は続いている。 停戦の翌日の空爆で破壊された商店街の軒下で商売を始めた人々。(2004年7月18日)
 バグダッドを朝出発し9時前に市内に入った。 事前に他のジャーナリストらから聞いていた話とは裏腹に市内に通じる大通りはたくさんの車が行き来し、 マーケットはにぎわっていた。一見平和な印象を持った。
 破壊された民家が目に付く。イスラム党のガイドの案内で市内を回ってみた。 市内中央の通りを抜けユーフラテス川に架かる鉄橋を渡った。 この鉄橋に米人4人(傭兵)が焼き殺されてつるされた事件を口実に米軍は報復攻撃を仕掛けてきたのだ。 今は停戦後結成された「ファルージャ軍」と呼ばれている地元軍隊が警備していた。
 橋を渡りきったところにあるファルージャ病院は市内最大の病院だが、 現在全ての医薬品が欠乏していると、医師たちが言っていた。
 3月末からの米軍の包囲攻撃で800人、さらに停戦協定後も50人の市民が殺され、 負傷者は2000人以上、破壊された住宅や商店は3000件以上にのぼる、と病院の医師が言っていた。
 空爆で破壊された、民家を取材中突然、数人の反米武装勢力ムジャヒディンが来て、拘束された。車に乗せられ、最初に連れて行かれたところは、住宅地の外れで、道路を挟んで、鉄道とハイウェーが並行しる地点だった。そこは米軍との前線が敷かれていたところだ。塹壕が掘られ、近くの木陰で数人の男たちが休息をとったり、カラシニコフ銃の手入れをしていた。 彼等は水を勧めてくれたり木陰には行って休んで居ろ、と言われとても丁重に扱われた。
 30分後、目隠しをされ別の場所に車で連れて行かれた。数分走っただけだった。 そこは大きな民家で住民は住んでおらず、このグループが使っているらしい。 トイレに行かせてもらう時には目隠しなしで行かせてくれた。近くでハイウエーが走っているらしく、 車の高速走行の音が聞こえた。ジュースや水を飲めと若いムジャヒディンが勧めてくれたが、 彼等は英語を話せず、コミュニケーションが取れなかった。しかし、とても紳士的だった。
 「イスラム党」から私についての連絡が入っていたため、2時間の拘束で釈放された。 釈放時には目隠しをせずに家から出してくれた。この場所がわかってしまうのにも関わらず、友人だからと言って。
 「昨夜の空爆で仲間が殺され、みな神経質になっている。外国人であればとりあえず拘束するのだ。疑って申し訳なかった。 これから市内を我々がガードして案内しましょう」と40代前半のグループの責任者が、 米軍の空爆で破壊された民家やサッカー場の墓地などに連れていってくれた。
 サッカー場の墓地に着くと、ショベルカーが新しい墓を掘っていた。 その脇に11個の新しい墓ができていた。それらの墓標はまだ名前も書かれていなかった。 案内してくれたムジャヒディンのリーダーがこれは今朝の空爆で殺された市民の墓だと言っていた。
 この墓地は米軍に包囲されたため、死者を市外の墓に埋葬することができず、 市内にあるサッカー場が米軍の攻撃で犠牲になった市民を埋葬する場所となってしまった。
 4月6日の空爆で31人家族が全員亡くなってしまった墓や、 一つの墓に小さな子どもが3人一緒に埋葬されているものなど、全部で600人以上が埋葬されている。

 3月末以降米軍のファルジャー包囲は「ファルージャのジェノサイド」と呼ばれ国際的非難を浴び、 米軍はファルージャ市内から撤退さざるを得なかった。 市民に何故そんなに強いのかと聞いてみた。「イラク戦争の時には、我々には守る物がなかった。 サダム大統領のイスだけを守らされた。今は、自分たちの町や家族を守るために闘っているから強いのだよ」と口々にいう。
 私を拘束したグループは町内会の自警団と言った風だった。 解放されるとき、若い一人のムジャヒディンが「日本はなぜアメリカの占領に協力して軍隊を送ってくるのだ。 我々が日本に期待しているのはテクノロジーや医療の支援なのだ」と悲しそうにいった。 私は答えを持ち合わせなかった。

【右目を失明したアブダル君】
 スマイル・ファラ・フセインさん(47)一家11人は一階の一つの部屋で寝ていた。4月9日の夜、米軍のヘリから突然数発のミサイルが打ち込まれ、銃撃が加えられ妊娠中の妻のファディーラさんのお腹に何かの破片が当たりお腹にいた子どもは死亡した。そばに寝ていた5才のアブダル君は飛んできた破片で右目を失明してしまった。他の子供たちも破片で傷を負った。
 当時、街が包囲されていたため救急車は街の外に出ることができず、バグダッドで手術させるため皮肉にも、米軍に頼んでヘリでバグダッドまで運んでもらった。
 米軍が潰れた眼球を取り出す手術だけしてくれたが顔の手術はしてくれなかった。バグダッドの病院で手術したという。「アメリカの何処に自由があるのか、子どもたちは米軍を大変怖がっている。米軍を憎みます。彼等は許可もなく人の家に入ってくる。門をぶちこわし、昼でも夜でもお構いなく。私が何故攻撃されなければならないのですか?平和な市民です」とスマイルさんは怒りをぶつけた。



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