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アフガン フォト日記  2002

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5月5日(Sunday)

アフガニスタン滞在10日目
 7時起床。街は5時半頃から起き出している。暑くてよく眠れなかった。
 8時にホテルのレストランで食事。ナン、スメタナ、チャイ、目玉焼き。
 9時一時間ほどカブール方面に走ると最初の手前に水力発電所のダムがあり、その下流一帯にいたアルカイダに空爆した。 たくさんの洞窟が空爆で破壊されていた。 アルカイダが化学兵器を作っていたかも知れないと言う部屋を見たがチャチでとても化学兵器製造など出来るものではない。 硫黄や粉末アルミニューウム等が落ちていた。自家製の火薬を作っていたらしい。
青空教室1  トラボラ方面の村に空爆被害の取材にゆく。ジャララバードの町外れには難民の子どもたちが学ぶ青空学校があった。 木陰でクラスごとに授業している。校舎が、もちろん教科書もない。黒板は板の端くれを黒く塗って木にくくりつけている。 この学校は5ヶ月前に出来たという。大人がボランティアで教師をしていた。
小学校に上がる前の子どもも
姉に連れられて一緒に授業を受けていた。

青空教室2
タリバン以後自由に勉強できることがなによりの喜びだ。

青空教室3
男女別学。カメラを向けると授業を授業が中断してしまった。

空爆の村・ドゥサラカ村(人口2,000人)

ケシ畑
トラボラ奥地は気温が低いため
ちょうどケシの花は満開の時期だった。
 ジャララバードから未舗装の曲がりくねった道を2時間。沿道には麦畑とともにケシの畑が見えてくる。 麦畑の合間に控えめに栽培されていたケシが奥地に進むと麦畑が控えめになっている。 背後の4千メートルを超える山々に見事に溶け込み美しいその風景だ。 だがこれが大麻やヘロインの原料になるアヘンを採る植物となれば悲しく醜い風景に見えてくる。 花の時期が終わって丸いピンポン玉ほどの実に細い3筋の傷を付けて行く作業を男たちがやっている。 車越しに見ると男たちが作業の手を休めて車に目線を送っている。 車の中にも傷つけられた青い実が発する青臭い臭いが入ってくる。

姉妹
姉妹は今も瓦礫の中で
親を探しているようだった。
 アルカイダが潜んでいた家は巡航ミサイルで攻撃されアルカイダ兵4人が死亡した。 現在は北部同盟の兵士が司令部として使っているが、巡航ミサイルの方向舵の一部と見られる破片を持っていた。 昨年(2001年)12月7日午後8時15分500メートルほど離れた民家にはヘリコプターが来て爆撃。 たぶんロケット砲で攻撃されたようだ。暗くてヘリは見えなかったという。一家8人が死亡し、ナキーブさん(25)は重傷を負った。 攻撃が続いていたため村人は救出することも出来ず、2時間も放置された。 車でペシャワールの病院に運ばれ、最近退院してきたばかり。 脇腹から腰にかけて、さらに右腕に大きな傷跡が残っている。今も体中にたくさんに金属片が刺さったままになっている。 もう一軒はナキーブさんのいとこ夫妻が殺され2才(男)バスチィーグル(5才・女)スポグマエ(7才・女)と弟の3人の子どもが残された。

ジルガ

会議が終わって代表が決まらずもめもていた。

夕方、政府軍兵士がパトロールから帰ってきた。
 夕方近く、ジャララバードへの帰り道に通りかかった街でロヤジルガの代議員を選出するための、この地方のジルガが開かれていた。 81,000人の人口の地域。60の地域から長老が集まった。この地域のロヤジルガに行ける定数は2人。 代表を3人にまで絞られたが、最後まで決まらなかった。夕方三々五々地元に帰っていった。 「よそでは2万5千人に一人の割合なのにここでは4万人に一人だ。定数を増やすべきだ」と主張する者もいた。

化学兵器工場跡
アルカイダが使っていたという、化学兵器工場跡。
金属の粉末や硫黄の粉末が落ちていた。

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