ホームへ
[イラクレポート 総合Index]

イラク レポート 2004/7 #4


[初めて飛行機を使ってバグダッドに来た] [サファアに会いました] [ファルージャ]
[ツアイサ核汚染の一年]

ツアイサ核汚染の一年

一年前(2003/6)のレポートを参考に
2004/7

5月になくなったトレフカルくんの遺影と弟。(2004年7月 アル・タミーン村)

手にアザのようなものが出来たエンティダルさん(11才)
トレフカルくんは昨年12月に発病した。病院にも行けず、薬もほとんど飲んでいなかった。(2004年3月 アル・タミーン村)
出されたドラム缶を米軍が1本3ドルで回収してきた。ツワイサ核施設内に保管されていた。 しかし、住民がきれいに洗ったドラム缶を回収しても汚染が起こった後では何の意味もない。(2004年4月ツワイサ核施設)
ツワイサ核施設の中心部。内部には米軍が厳重に警備していて入ることはできなかった。(2004年4月)

白内障の少年(2004年4月 アル・タミーン村)
 6月中旬、イラクから1通のメールが送られてきた。 「あの少年が亡くなった」という訳しにくい英語のメールは バグダッド近郊ツワイサ核施設の核汚染被害者が亡くなった知らせだった。
 彼の名前はトレフカル・アリ・イブラヒム君(12才)。ツワイサ核施設の東側のアル・タミーン村に住んでいた。 3月にこの地域の子どもの健康を診ているイラク人NGO団体が連れて行ってくれた家の子どもだった。 家はツワイサ核施設の東端から数百メートルしか離れていなかった。家の庭にはたくさんの金属機器運び込まれていた。 これらはみな施設内から運ばれてきたものだ。
 トレフカル君は昨年12月頃から体調を崩し、 一度だけ医師の診断を受けたが、肝臓疾患と言うだけでその後何も治療を受けていなかった。
 ベッドに横になっていたトレフカルくんは辛そうな顔をしていた。 お母さんが彼の上着を巻く仕上げると風船のように膨れ始めていたお腹が見えた。 バグダッド市内の小児病院ガン病棟で見かけた劣化ウラン弾で 侵されたと思われる白血病の子どもと同じようにお腹が風船のように膨れ始めている。
 トレフカル君の見開いた大きな目は白目の部分が黄色くなっていた。 黄疸が出ている。「助からないかも知れない」と素人ながらも感じていた。
 治療に「300万イラクディナール(約1500ドル)使ってしまった」とお母さんはうなだれていた。 元タクシードライバーのお父さんアリ・イブラヒム(56)は治療費を捻出するためオンボロの車を売り払ってしまった。 部屋のなかには家具らしいものはトレフカル君の横たわっているベッドだけだった。 薬を買うために、売り払ってしまったのだ。
 トレフカルくんの直接の死因は核施設の略奪にともなう核汚染によるものなのか、 それ以前の放射能漏れ事故によるものなのかはっきりしない。
 彼が通っているアリ・サフィーヤ小学校の校長先生は 「395人の子どもの内、60人が何らかの症状を訴えている。戦後の10倍以上になっている」と異変を訴える。 さらにこの地域の子どもの家庭は貧しいために病院に行けず、みな不安を募らせている。
 村の中を歩いていると、「診てくれと」母親が子供たちを連れてくる。 ジャーナリストの私を医師だと勘違いして集まってくる。 みな藁をも掴む気持ちなのだ。子どもたちのなかに白内障と思われる子どももいる。 彼は数ヶ月前から急に目が見えなくなったといっていた。
 学校事務のモハメッド・クワイシさん(38)は 「米兵がゲートを開けて住民が入れるようにした。 子どもたちの病気はあのとき米軍がしっかりゲートを警備してくれれば起きなかったのだ」 「米軍には子どもを直す責任がある」と怒りを露わにしていた。
 急性放射線障害と思われる症状で亡くなった大人はすでに何人にものぼる。
 その実体を知ろうとツワイサ核汚染被害者を最初に急性放射線障害と診断したツワイサの南にある マダーイン中央病院を昨年6月に訪ねた時には親切に医師が患者の家に案内してくれた。 「是非この悲劇を世界に伝えてくれ」ととても取材に協力的だった。 しかし、今年3月に訪ねた時にはその対応が不可解なものだった。 その時の担当医師は面会をしようとせず、院長が「もうあの問題は解決した、問題はない。 イラク側の治療チームを作った。5000人の調査をした」と素っ気ない態度をとっていた。 しかし、村の住民たちは「学校に子供たちの血液採取に来ただけだ。結果も知らせてくれない。 大人たちは健康診断もしてくれない」と病院側の対応と異なる証言をしている。 病院の外来受付の玄関には「放射性物質の入った容器は持ち出さないよう」に注意したチラシが貼ってあった。
 イラクの元保健省放射線防護センターの職員は「アメリカを恐れているのだ」 とそっと教えてくれた。なぜアメリカが真実を隠そうとするのか。 小学校を訪ねると元気な子どもたちが写真を撮ってくれと駆け寄ってくる。 この子らの未来に待ち受ける悲劇に誰が責任を取るのだろうか。

ツワイサ核施設の核汚染とは?

 サダム政権下で核開発をしていた中心的施設。
 1991年の湾岸戦争後、今度の戦争まで国際原子力委員会が核査察を行っていた。 この報告書によれば「この施設は核開発能力はない。核物質はこのまま安全に保管しておけばよい」と言うことになっていた。
 戦争が始まるとイラク軍が警備していたが米軍がバグダッドに接近すると、 イラク軍は逃げてしまった。サダム政権が崩壊すると政府機関をはじめ、 あらゆるものが略奪の対象になり、このツワイサも例外ではなかった。
 元保健省防護センターの職員がこの施設が略奪されたら放射能汚染が拡がり大変なことになると、 米軍に再三にわたって施設の警備を要請したが、米軍は何もせず、略奪を防がなかった。 住民は中に保管されていたプラスチック製のドラム缶が欲しかった。 その中には黄色い粉状の天然ウラン(通称イエローケーキ)が保管されていた。 住民は無味無臭の天然ウランとは知らずにドラム缶を運び出すときに、住宅地の空き地や道路、学校の庭 などところかまわず棄てていった。こうして深刻な放射能汚染が拡がった。住民4,000人以上が被曝した。
 現在イラク保健省、環境省、科学技術省の合同調査委員会ができ調査が進められている。 それによると昨年4月の事件後、白血病やがん、流産、死産、奇形児が多発している。 しかし、住民は現在も放置されている。


このサイトの写真・文章の著作権は、森住卓に属します。無断での二次利用を禁じます。
Copyright Takashi Morizumi